勝利への旅立ち

『勝利への旅立ち』(Hoosiers)は、1986年に製作されたアメリカ合衆国の映画作品。インディアナ州の小さな町の高校バスケットボールチームの栄光を描いた実話を基にした作品で、2001年にUSAトゥデイ紙は「歴代のスポーツ映画の中でも最も素晴らしい」と評した。アカデミー賞で、音楽など複数の部門で候補となった。デニス・ホッパーがアカデミー賞にノミネートされた唯一の作品でもある。

キネマ旬報ベスト・テンの基準

キネマ旬報ベスト・テンは、1924年に外国映画のみを対象として「芸術的に最も優れた映画」「娯楽的に最も優れた映画」の2部門を編集同人の投票により選出したのが始まりで、日本映画の水準が高くなったことを理由に1926年から日本映画も対象となった。

以降、映画を日常的に多数観ており、中立的で公正な評価が可能な委員(第85回ベスト・テン発表時の選考委員は121人[1])により、毎年「日本映画ベスト・テン」と「外国映画ベスト・テン」が選出されている。第1位に選出された作品は、ベスト・ワンと書かれる。1972年度から「読者選出ベスト・テン」も始まり、「映画評論家が選ぶ、信頼に足る映画」と「一般的に広く好まれる映画」とが多角的に区別されている。邦画バブルと呼ばれる2000年代後期に日本映画界をマーケティング重視の作品が席巻する中でも作品第一の姿勢は一貫して貫かれている。

永井荷風の戦後

戦後は厳しい住宅事情とインフレによる預貯金封鎖のため、荷風は従弟大島一雄(杵屋五叟)やフランス文学者小西茂也など知人の家に同居を余儀なくされた。一人暮らしに慣れきった彼のライフスタイルは同居人への配慮のないもので、大島の三味線の稽古を妨害したり、硫黄臭のきつい皮膚病治療薬を浴槽に入れたり、縁側から庭へ放尿するなど、とても共同生活ができるものでなく、周囲と悶着を続けた。ために知人相磯凌霜の船橋市海神北一丁目の別荘を書斎代わりにした事もある。

大島一雄の次男永光と1944年に養子縁組をしたが、1947年夏、荷風の『ひとりごと』の草稿を大島の家族が無断で売却した争いがおこり、これが原因で離縁を弁護士に依頼したこともあるそうだ。

エピソード6 サブタイトルにまつわる話

スターウォーズのエピソード6について。

ジョージ・ルーカスが最初の脚本を書いた時点でのサブタイトルは『ジェダイの帰還(Return of the Jedi)』であった。しかし監督のリチャード・マーカンドに「『ジェダイの帰還』では弱い」と言われ、ルーカスはサブタイトルを『ジェダイの復讐(Revenge of the Jedi)』に変更し、サブタイトルを発表すると共に製作を進行させた。

しかし、公開前になってルーカスは「全宇宙一高貴なジェダイは復讐などしないだろう」と考え、最初の『ジェダイの帰還』に戻した。

それでも、日本国内では既に『ジェダイの復讐』名義の関連商品を準備しており、また興行的成功を狙ったインパクトのあるタイトルを求めたため、『ジェダイの復讐』として1983年に公開された。

「獣人雪男」撮影時の工夫

雪男の造形に当たっては、各種猿人の資料で裏付けをとって、リアルさを追求し、円谷監督は「単なる怖がらせのためのものではないと自信を持って言えるものだ」と自負している。

雪男のぬいぐるみの造形は、当初大橋史典が中心となって行われ、巨大さを表現するために、足元を高下駄式にしていたが、危険なため取り止めとなった。顔面も数回作り直されたが、約半年を費やした末に、最終的に造形チーフの利光貞三によって制作された顔面が採用された。胴体も八木寛寿、八木康栄によって子供の雪男ともども作り直された。

大橋の雪男は、牙をむき出した凶暴そうな顔つきが特徴で、利光の雪男は、口元の下がった穏やかな顔つきをしている。全身の体毛は、ヤギの毛を植え付けたもの。顔面はスーツアクターを担当した相良三四郎のライフ・マスクが石膏で型取りされ、演技者の表情に連動して動くよう工夫がされた。

ハーバート・ローリンソン

イングランド人の映画俳優、ハーバート・ローリンソン。

何と生涯に400作もの映画に出演したという。

舞台俳優としてキャリアを積んだローリンソンは、満26歳を迎える1911年(明治44年)、映画界に進出、アメリカ合衆国のセリグ・ポリスコープ・カンパニーが製作した短篇映画 The Cowboy and the Shrew に出演、同年4月10日に公開されたのが、もっとも古い映画への出演記録である。同社が量産する短篇映画に100作近く主演する。1913年(大正2年)末をもってセリグを離れ、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、同社傘下のバイソン・スタジオ、レックス・スタジオ等が量産する短篇映画に多く主演する。1915年(大正4年)には日本でも公開されたシリアル『黒い箱』に主演する。かつて共演者であったウィリアム・ウォーシントンが監督に回り、同年からウォーシントン監督、ローリンソン主演の短篇映画が量産される。

プラトーンの撮影

プラトーンの撮影はフィリピンのルソン島で行われている。

映画に参加する全ての俳優は撮影開始2週間前からフィリピンに滞在し当時の生活を実践した。髪型と食料は軍人仕様と同一のもの(GIカットにレーション)とさせられ、シャワーを浴びることさえ許可されなかった。また、ジャングルで夜を明かす際もローテーションで監視まで行う徹底振りであった。指導には、元アメリカ海兵隊大尉であり本作でハリス大尉役を演じているデイル・ダイが係わっている。

映画で使用された煙草は、オリバー・ストーンがリアリティに拘った結果、当時製造されていた桜色のパッケージを施したマールボロを再現した。

映画に参加した俳優の中には、着用しているヘルメットに自らメッセージを書き加えたものもいるそうだ。

未知との遭遇特別編

’77年の公開後、スピルバーグは初公開版で映像化しきれなかったシーンを盛り込むリニューアルをコロムビア映画側に申し出た。
「マザーシップ内を見せること」を条件に追加撮影の予算が計上され、実写/視覚効果の追加撮影と再編集、台詞の再録音を経て’80年に発表された「特別編」は実質「ディレクターズ・カット」であるが、スピルバーグ自身には初めからマザーシップ内部は見せたくないという意向(特別編公開以降の発言)は損なわれた。

マザーシップが星空に消えてゆくエンド・クレジット(後にILMの視覚効果監督となるデニス・ミューレンが撮影)の後半部分に、スピルバーグはディズニーアニメ『ピノキオ』(ロイが家族と観に行きたかった映画)の主題歌「星に願いを」を流すことを考えていたが、試写の批評が芳しくなくカットされた。これが「特別編」で復活された。旋律だけでなく歌も流そうとスピルバーグは考えたが、リアリティを損なうと他のスタッフから反対された。

フェリーニの来歴

高校卒業後、新聞社に勤務し、古都フィレンツェや首都ローマで挿絵や雑文を書いていた。その後、ラジオドラマの原稿執筆などを経てロベルト・ロッセリーニ監督の映画『無防備都市』のシナリオに協力。同作品はイタリア・ネオリアリスモ映画を世界に知らしめた記念碑的作品である。

『寄席の脚光』(1950年)でアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督にて監督デビュー。1952年の『白い酋長』で単独監督。この作品で音楽監督として起用されたニーノ・ロータは、『オーケストラリハーサル』に至るまでのすべてのフェリーニ作品で音楽を手がけることになる。三作目となる『青春群像』(1953年)では故郷の街とそこで生きているどうしようもない青年達の姿を描いてヒットを飛ばし、ネオリアリスモの若き後継者として注目された。ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。続く『道』(1954年)では甘美なテーマ曲と物語の叙情性とヒューマニズムから世界的なヒット作となり、フェリーニの国際的な名声が確立する。 道は、特に傑作だと思う。

どっちなのか

映画産業は、アメリカでは「不況に強い」産業となっている。また、ビデオやDVDの普及、ファイル共有ソフトの隆盛が「映画産業を破滅に追い込む」といった考えは「誤った思い込み」であり、現実では観客動員数は減るどころか、逆に増えているという。

こうした観客動員数の増加については、「大画面で見た方が楽しめる大作を作ることによって、観客の足を映画館へ運ばせている」との指摘がある。しかしながら、移民の増加によって人口が増え続けているアメリカで観客動員数が増えているからと言って、それが直ちに映画産業の好調を示すものではないことに留意する必要がある。

映画産業も他の産業同様、全体として需給のバランスが崩れ始めれば衰退が始まる。需給バランスの客観的な指標としては、観客動員数や総興行収入や全国のスクリーン数ではなく、国民一人当たりの年間映画館利用回数を用いるべきだという指摘もある。

どちらかの見方によって、指標も当然変わってくるものだ。